秩父市荒川の民話と伝説~即道神社のおこり~

2017年12月26日

秩父市荒川糀屋地区に、元禄のころ六兵衛という人がおりました。

若いころは村の名主に仕え、年老いてからは髪を剃って即道と言いました。

この即道の先祖は町田尾張守定照といって、代々上田野の薬師堂に住んでおりました。

若いころの六兵衛は足が速く人々を驚かせたという話があります。

ある時、近くに御祝儀があって、ちょうどものの腐りやすい夏でありましたが、生魚が欲しいので遠く江戸まで買いに行くことになりました。

しかし、当時のこととて、二日も三日もかかったのでは折角の魚も腐ってしまうので、足の速い六兵衛に頼むことになりました。

彼はわらじをはき、飛ぶように旅立ちました。

と、その日の夕方、近所の者が御祝儀のある家に来て言うには、「六兵衛の奴、江戸へ行くといって出かけながら、いま荒川で水泳ぎをしている。太い奴だ。とうとう行かなかったんだよ。」とおこりながら告げました。

と、そこにちょうど六兵衛が入って来ました。

家人はすぐさま、「折角お前に頼んだのに、どうして江戸に行かなかったんだ。」と聞くと、六兵衛はにやりと笑って、「冗談じゃありません。行って来ましたよ。急いだので汗になったから、いま荒川で流して来たのです。うそだと思うなら家に行って見なさい」と言いました。

又、ある時大勢の人々が集まったところで、「この鉄瓶の水が煮えたたない間に武甲山に登って頂上の鐘をついてみせる」と六兵衛は得意になり、威張ってみせました。人々は笑いながら「如何にお前が速くてもそんなことは」と相手にしませんでした。

六兵衛は見いろ、というような顔付きで走り出しました。

しばらくすると、山の上から確かに鐘の音が聞こえました。

しかし、人々は「だれかと相談しておいたのだろう。そしてお前はどこかで休んでいて、また引き返して来たのに違いない。」と言って信じませんでした。

すると、六兵衛は一反の絹の端を自分の腰に結わえつけて走ってみせました。絹はあまりの早さにヒラヒラなびいて少しも地に着かなかったので一同もこれには驚いてしまったということです。

又、六兵衛は非常に精力的な人でもあったということです。冬になって彼は薪作りを頼まれました。ところが、三日経っても、四日経っても一片の木も運ばず、呑気に遊んでおりました。あきれて家人が責めると「今夜のうちに庭先に薪を山のように積んでおくよ。」と六兵衛は平気なものです。

翌朝、戸をあけてみると、なるほど積みあげた薪が屋根までとどいておりました。家人は驚いて、「そんなに運べるはずがない。」と聞きただすと、「そんならいま、背負って来てみせましょう。」と言って山に登りました。間もなく帰って来た六兵衛を見ると、十二子の梯子に薪を一杯つけて背負っておりました。これには全く驚くばかりだったとのことです。

又、こんな話も伝わっております。ある日、六兵衛は安戸に安置してある薬師如来の木像をどこかに失ってしまったことにより、村人からその責を問われ、自分で作って償うことになりました。のみを持って彼は川浦の山中に入り、約1か月にして薬師の坐像を作り上げてきました。

ところが失った像は座像ではないと言われ、再び山中に入り一夜にして、七尺に余る立像を作り村人に謝したということです。

この立像が現在、安戸の薬師堂に安置されているもので、田野原の薬師堂に安置されているのが、前記の坐像だそうです。

こうして幾多の奇行を遺した六兵衛は、晩年即道と改め、贄川の常明寺で入定したといわれ(一説には数日後墓を掘ってみると彼の遺骸がなく、遠く四国の金刀比羅宮に老後の即道を見かけた人もあるという)その奇人を偲ぶため、彼を祀った神社が即道神社であります。

そこには、即道が大きな油石に平仮名や漢字を彫りつけた、まだだれもわからない文句の「即道爪彫りの石」というのが今も納められています。

 

年の瀬にひとつ、平成四年に発行された「荒川村の民話と伝説」より「即道神社のおこり」でした。

ちなみに、坐像が安置されていて即道神社もある田野原の薬師堂は、荒川上田野地内のローソン(旧セーブオンの方)の向かいあたりにあって

 

立像が安置されている安戸の薬師堂は荒川総合支所から大滝方面へ行く最初のカーブの右手にあります。

また、即道の終焉の地は贄川町分の秩父御岳山の登山口から少し登った場所にあります。

ご覧のように、坐像も立像も外から拝見できますので、皆さんも訪れて、伝説の奇人即道(六兵衛)のパワーを感じてみては如何でしょう♪